宗旨は曹洞宗 本尊は弥陀三尊如来で、伊那市高遠町勝間龍勝寺の末寺であります。(一般でいうと分家)真金寺は後嵯峨天皇時代(寛元年間)1243年くらいに木曽義仲の四大家臣の1人樋口次郎兼光の菩提を弔うために、その子供である樋口左近兼重自ら開基となり下田の五反田の地に、天台宗の寺として内現山真金寺を建立しました。鎌倉や京都では新興宗教といわれる浄土宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗など台頭してきましたが、田舎では平安仏教の天台宗が盛んでありました。樋口次郎兼光の妹は木曽義仲の妻として有名な巴御前と云われ、末えいには兼豊(通称は惣右衛門)は長尾政景・上杉景勝臣下の武将であり、NHK大河ドラマ「天地人」の主人公直江兼続(樋口与六)の父親です。兼重の孫光頼は文保3年(1320年・元応元年)真金寺を五反田の地より矢沢に移転しました。 創建は応永年間(1394-1428)建立当寺は天台宗でありましたが、その後臨済宗の僧覚円が諸国を行脚し当地に来て、時の大石城主樋口光平(光頼の三代後)は深く覚円に帰依して真金寺を臨済宗に改宗創建して覚円を開基としました。 天文17年(1548年)龍勝寺から第七世利天等俊大和尚様が来て、衰退しかかっていた真金寺を矢沢から上之原(現在の赤羽墓地)に移転し宗旨を曹洞宗に改めました。その後、龍勝寺から緑巖順柏和尚様が第二世住職となり、上之原が民家に近づき過ぎているので拈華(ねんけい)に寺を移しました。これは現在の寺の位置より二丁(216㍍)程山奥であります。山号も内現山から拈華山に改称。移転した年は不詳でありますが、緑巖順柏和尚様は寛文3年(1663年)に示寂しているのでこの少し前になると思われます。 享保11年(1726年)6月伽藍が全焼。時の第七世住職密伝万教和尚様は「拈華(ねんけい)は山の中で水利も悪いから現在の所に移して再建しよう」と計画しましたが、再建が出来ないうちに享保18年に示寂。この後伊那市富県の金鳳寺から来た第八世龍堂百川和尚様は在位14年の間に密伝万教和尚様の遺志を継いで寺を再建しました。山号を拈華山から龍池山に改称。 第九世不伝独雄和尚様は梵鐘の鋳造を発願して寛延3年(1750)の秋には出来ましたが、銘を刻まず後の10世海栄北州和尚様に依頼して示寂しました。海栄北州和尚様は不伝独雄和尚様の遺志による銘記を釣鐘に刻み、明和2年(1765年)には鐘楼を造営した。文政9年(1826年)3月山境から出火した野火が延焼して伽藍全部を焼失。この火災の直後に住職となった14世大活透海和尚様は早速高遠藩の許しを得て再建のための権化に高遠領内を托鉢して廻りました。 この努力を続けて15年後の天保11年(1840年)に鐘楼・土蔵・庫裡等は再建することが出来ましが、本堂はついに再建することはできませんでした。これは焼失した本堂は8世龍堂百川和尚様が全力を尽くして建立した非常に美しい本堂で、これと同じようなものを建立するには、多額の費用を要するなど困難なことが多く、遂に着手することができず、以後45年間は本堂を再建することが出来ませんでした。 安政7年(1860年)3月の「樋口村宗門人別御改帳」によると、当寺の樋口村は人口521人、戸数122戸で香蓮寺と真金寺の二ヶ寺の檀家からなっており、内訳は真金寺檀家 270人 63戸 香蓮寺檀家 251人 59戸でありました。明治3年(1870年)16世大演祖孝和尚様の時、香蓮寺が廃仏毀釈により廃寺となったことで、その本堂を145両で買いうけて再建し、開山堂も新造。(145両換算すると435,000円 幕末期1両3,000円で換算)その後、山門再興の機運が進み明治26年(1893年)十月ようやく落成上棟の運びとなりました。棟梁は大隅流 諏訪湊村 花岡源内の作であります。 現在まで130年間地域の人々を見守っています。